思考1

dotさんの「思考がロックする」のトラックバックに返事をせずに、長い時間たってしまったが、返事をしてないことを思い出して、かつやる気になったので、書いてみる事にした。
思考がロックする」は元々、近道を歩きたがる人々に対してのトラックバックであったということを付記する。

このエントリでは、dotさんのエントリに対し反論しつつ、なぜ中高生が思考をしないのかという話を書いていこうと思う。

最初に、dotさんの主張である
> 極論であるが、日本人において「恥の意識」と礼節さえ備わっていれば、
> 取り立ててモノを考えなくてもいいのではないか?と私は思っています。
これは、全くレベルの外れた主張だと指摘したい。

思考、つまり考える事というのは非常に幅広い適用範囲があり、日常生活のちょっとした判断から複雑怪奇な科学論文までピンからキリまである。
一方、恥の意識というものは、日常生活におけるモラルの問題というものに置き換えが可能である。モラルの善し悪しというものは一定の線引きが可能であることから、ここまでなら良い、またはここからは悪いという基準前提の可否判断のみの話になり、思考をするしないの本質とは、別レベルの話になる。つまり「恥の意識」および「礼節」は、このような事をしたら恥ずかしい(または恥ずかしくない)とか、このような事をしたら礼を失する(または礼儀にかなう)というように、その当時の一般常識に照らし合わせ、一般常識を判断の基準にした上で、これからする行動は基準に沿うか否かを判定するだけの行為だと言えるからだ。恥や礼節というのは「なぜ」その行動を恥ねばならないのか、「なぜ」その行動が礼を失してるのかという疑問に対し、「それが常識だからだ」としか答えられない。この「常識」という表現こそ、判断の基準を表現した物にほかならない。なぜなら、その「常識」は本当に正しいのか?「なぜ」正しいのか?という質問に答えられないからであり、その事こそが「常識」というものが、世間一般により大筋で合意されている「判断基準」であるということを示しているからだ。以上のことから、「恥の意識」および「礼節」というものは、思考とは違うレベルの話であるということが言える。

次に、第二パラグラフ
> 思考力というのは訓練によって獲得できるという事に異論はありません。
> ただ、それは人生を楽しく生きれるかも知れない為の道具、おまけみたいなもので、
> 身に付けたい者のみが身につければ良いのだと思う。
思考力というのは、おまけではない。なぜなら、思考というものは「なぜ」というのが核になるからだ。ということは、思考は論理であるということが言える。そのような話をこれから書こうと思う。

わかりにくい話から書いていこう。思考は論理であると先に書いた。では論理とは何か?
一般的な日本人の感覚で「論理」と聞くと、えらく難しい事のように聞こえる(これが、日本人が論理的思考が苦手な事の証左だが、それはまた別の話)。ところが、論理的とはどういう事なのかと平たく書けば、主張(あるいは話の核)に対して「説得力」のある根拠があるのかどうかというように言い換える事が出来る(厳密に言えば少しずれてる言い換えだが)。例えば、あなたが自分の発案した企画のプレゼンテーションをするとすれば、あなたの企画案(主張)に説得力を持たせるために、具体的データ(各所の統計だったり、市場調査の数字など。つまり「根拠」)によって裏付けを行おうとするはず。これは無意識のうちに説得力を上げようと、「根拠」による裏付けによって「説得力」を向上させようとする、「論理的」な「思考」の現れなのだ。物事には必ず理由がある。結果があれば原因がある。有名な三段論法「AゆえにBゆえにC」では、「Cになるのは、Bが原因だ。これはBである。なぜならAであるから」というように、何事にも因果関係があり、理由がある。
逆に「子供の論理」と言われるものは、一見理由を示してるようで、主張に対して「説得力」がない根拠しかないという場合のものだ。例えば「宿題を忘れたのは、眠かったからです」というようなもの。宿題というものは、眠たかろうがやらなくてはいけない義務であるので、「眠たかったから」という理由には全然説得力がない。ゆえに論理的ではないので、大人は「納得できない」のだ。

思考2へ続く

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